

私は大学の授業で、この和讃は「こおりが転じて水となる、私たちの罪や障りは消えることがないけれど、それが無碍光の利益により功徳に転じる」という「転成」を表している和讃であると教わりました。しかし、私の中で「転じる」ということがどういうことなのか、身をもって実感できずにいました。
そして、またあらためてこの言葉と向き合ってみると、四年前の私の姿が思い出されます。大学卒業間近で後期修練(「教師」という資格を得るために大谷派の僧侶が集う研修)が始まる頃、私は家に帰ることへの不安と葛藤を強く感じていました。もともと寺とは全く関係のない道に進んでいた私が、事情により寺に帰る決心をしたにもかかわらず、帰る日が近づくと、大きな不安に押しつぶされそうになっていました。そして、身動きがとれなくなった私はある先生の元を訪ねました。すると先生は、「今のあなたはさまざまな思いが駆け巡っているから、いくら考えても答えは出ないでしょう。でも、どんなに悩み苦しんでも体は一つ。必ず身は動きます」と言われました。その言葉の意味が理解できないまま後期修練に臨みましたが、私の心は揺らいだままでした。そして、修練最終日に講師の先生の元を訪ねると、先生は「あなたは家に帰ってもっと勉強しなさい。そして、門徒さんに育ててもらいなさい」と言われたのです。この二人の先生の言葉で、私は家に帰る決心がつきました。
だからといって、悩みや不安が消えたわけではありません。そんな時、長崎聞光の公開講座で講師をされていた、廣瀬杲先生の講義録が目に入りました。その中で、廣瀬先生は八木重吉さんという方の「心よ」という詩を紹介されていました。
こころよ では いつておいで
しかし また もどつておいでね
やつぱり ここが いいのだに
こころよ では 行つておいで
私はハッとさせられました。過去の決断を「ああすれば良かった」と後悔したり、「今が辛くてもいつか良かったと思える日が来る」と将来に期待したり、私の心はさまざまなことを思います。しかし、そんな心のままでは、現実を「やっぱりここがいい」とは思えないでしょう。「ここがいい」と思えるということは、いろんなことを思って私を苦しめていたのは環境や誰かのせいではなく、私自身だったということに気付くことができるからです。どんなことを思っても身は一つ。帰る場所は今、ここにいる私の身しかありません。そこに頷くことができたのは、常に自分と向き合わせていただくお念仏の教えと、共に聞法させていただく門徒の方々のお姿に出遇ったからです。そうすると、どんなに現実が大変で心(煩悩)があちこち彷徨ってしまっても、またちゃんと「ここ」に戻ってくることができる。
源信僧都の『往生要集』に次の様な言葉があります。
「貪欲は即ち是道なり(中略)氷と水との性の異なる処に非ざるが如し」
私の心に起こる貪りや欲といった煩悩は消えることはありません。しかし、煩悩という氷塊がなければ、功徳という水にはならない。そこに、私は煩悩を縁として仏法という功徳に出遇わせていただいているのだと、常に気付かされるのです。四年前のあの時、二人の先生に言われた言葉は今でも私の心に強く響いています。
深草 教子(ふかくさ・きょうこ)
長崎教区福浄寺衆徒
真宗大谷派宗務所 東本願寺出版部 「今日のことば」より